医療現場に立って10年が経って、気づいたことがあった。

私が毎日会う人たちは、みんな少しだけ怖い顔で来る。

それに気づいた日、仕事の景色が全部変わった。


怖い顔、という話

最初の頃は気にもしなかった。

「次の方どうぞ」
「保険証をお願いします」
「お名前の確認をさせてください」

ルーティンをこなすことで精一杯で、目の前の人の表情なんてちゃんと見ていなかった。でも3年目くらいから、気になり始めた。

検査結果を聞きに来た人は、受付に来る前から肩が強張っている。

再診が続くにつれて、顔色がだんだん青くなっていく人がいる。

「先生に直接聞くのが怖くて」と、カウンターの前で小声で話しかけてくる人もいた。

 

病院の受付って、人が一番「死」に近づく瞬間の入口なんだ。

そう気づいた日のことは、今でも覚えている。


ある常連の患者さんのこと

70代の女性で、毎月必ず同じ曜日に来る方がいた。

慢性的な持病があって、もうずいぶん長い付き合いになっていた。いつも少し早めに来て、待合室の端に座って、静かに順番を待っていた。

ある日、その方が帰り際に立ち止まって、こう言った。

「あなたが名前を呼んでくれるから、怖くても来られるのよ」

 

その言葉の意味を、最初は正確に理解できなかった。

名前を呼ぶ。それは確認作業だ。
「〇〇様、お呼びです」
受付の基本中の基本で、特別なことでも何でもない。

でも彼女にとっては違った。

病院に来るたびに、死を少し意識している。そんな場所で、自分の名前を「ちゃんと」呼んでもらえること。それが、来る勇気になっていた。


私がやっていたのは、事務じゃなかった

医師でも看護師でもない。

でも、患者さんが病院に入って最初に顔を合わせる「人間」が、受付の私だった。

保険証を受け取る前に、まず「人」として会っている。

 

その人の怖さを、受け取れるかどうか。名前を呼ぶときの声に、少しだけ気持ちを込められるかどうか。たったそれだけのことが、その人の一日をほんの少し変えていたかもしれない。

「事務でしょ」と言われるたびに、なんとも言えない気持ちになっていた理由が、あの言葉でやっとわかった気がした。

私がやっていたことは、事務じゃなかった。


疲れた夜に思い出すこと

給料が高い仕事じゃない。

地味だと思われている。資格を持っていても、なかなか評価されない。

それでも続けているのは、あの言葉があるから。 

「怖くても来られる」
——それを、私が作っていた。

誰かの怖さに寄り添えている仕事をしている。

その事実だけで、今日も出勤できる気がする。

疲れた夜は、これだけ思い出すようにしている。


あなたの「お名前の確認をさせてください」が、誰かの背中を押しているかもしれない。


 

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