仕事が終わって、病院の裏口からそっと外に出る。夜の空気を肺いっぱいに吸い込んで、長く、長く息を吐く。そのとき初めて、「ああ、自分はずっと奥歯を噛み締めていたんだな」と気づきます。肩はバキバキで、首の後ろがズキズキ痛くて。

今日も一日、ずっと緊張していました。

なかでも一番しんどいのが、あの音です。

ジリリリリ——。

受付の静けさを切り裂くように、唐突に鳴り響く電話のコール音。あれが鳴った瞬間、心臓がギュッと握られたみたいになりますよね。指先が冷たくなって、キーボードを叩いていた手がピタッと止まって。

——誰か、出てくれないかな。

正直に言えば、毎回そう思っていました。隣の先輩の方をチラッと見て、でも先輩はカルテに集中していて、とてもじゃないけど声をかけられない。結局、祈るような気持ちで自分の震える手を受話器に伸ばします。

取るまでの、あの数秒間が本当に怖いですよね。

なぜかって、受話器の向こう側がまったくの「未知」だから。穏やかなおばあちゃんかもしれないし、朝からイライラしている患者さんかもしれません。早口でまくしたてる他院のスタッフかもしれない。何が飛んでくるか、取るまで一切わかりません。

「今日の午後って空いてます?」 「昨日もらった薬、なんか色が違う気がするんだけど」 「〇〇先生、今日いる? いないなら何曜日にいるの?」

矢継ぎ早に繰り出される質問。半分も理解できないまま、背中にじわっと冷や汗がにじんできます。頭の中が真っ白になって、自分が何をメモしているのかすら、もうよくわからなくなっていく。

そして追い打ちをかけてくるのが、自分の中にある「ちゃんと答えなきゃ」という声です。先輩たちは忙しそうに走り回っている。こんなことで手を止めさせたら申し訳ない。自分で何とかしなきゃ。そう思えば思うほど声は上ずって、メモ帳にはミミズが走ったような字が残るだけで。

——わかります。本当に、痛いくらいわかります。

自分もそうだったので。

でもですね、10年以上この仕事を続けてきて、何千本という電話を取ってきた今だから言えることがあります。一つだけ、そっと伝えさせてください。

最初の頃に大事なのは、「完璧に答えること」じゃありません。

ここを勘違いしてしまうと、心がどんどん追い詰められていきます。電話を取った瞬間から「自分一人でこの通話を完結させなきゃ」と思い込んでしまうと、その重さに押し潰されてしまいますよね。

新人のうちに求められていることは、実はたった一つだけです。

「誰からの電話で」「何についての用件か」を聞き取ること。

本当に、それだけで大丈夫です。

「田中ですが、次の予約を変更したいんですけど」——この一行がメモに残せたら、もう満点です。十分すぎるくらい、立派に仕事をしています。

そして、少しでも「あれ、これ自分じゃわからないな」と思った瞬間。ためらわずに押してほしいボタンがあります。

保留ボタンです。

これが、新人時代の最強の味方になってくれます。

「確認いたしますので、少々お待ちいただけますか」

この一言を、ゆっくり落ち着いて伝えてください。そして受話器を胸に当てて、ふぅっと一回深呼吸してから、保留を押す。それで大丈夫です。

「待たせたら怒られるんじゃないか」——その不安もすごくよくわかります。でもですね、あやふやなまま「たぶん大丈夫です」と答えて、あとから大きなトラブルになるほうが何十倍も怖いですよね。患者さんにとっても、自分にとっても、職場にとっても。少し待ってもらってでも、正しい情報を届けるほうが、結果的に誰のことも傷つけずに済みます。

ここで一つ、先輩側にいる人間としての本音も正直にこぼさせてください。

保留にして先輩に聞きに行ったとき、先輩がパソコンの画面から目を離さず、ちょっと不機嫌そうに返事をすることがあります。レセプト期間や午前中のピークタイムは特にそうです。余裕がなくなると、人間どうしても態度に出てしまうもので。

でも、あの素っ気ない返事は、「聞いてくるな」という意味じゃありません。

ただ、その瞬間の忙しさに追われているだけですよね。先輩の小さなため息やぶっきらぼうな言い方は、質問してきたこと自体を責めているわけじゃありません。本当に、ただ忙しいだけです。

だから、「お忙しいところすみません」と一言だけ添えて、堂々と聞いてください。一人で抱え込んで間違った案内をしてしまうほうが、現場としては何百倍も困ってしまいますから。先輩たちは、本当はそのことをちゃんとわかっています。

すべての質問にスラスラ答えられるようになるのは、ずっとずっと先の話です。

何百回も受話器を取って、うまくいかなくて凹んで、先輩が電話で使っていた言い回しを「あ、それいいな」と横からこっそり盗んで。そうやって少しずつ、「ああ、このパターンね」と体が覚えていきます。引き出しは、失敗した数だけ増えていくものですから。

最初から上手にできた人なんて、本当に一人もいません。自分も含めて。

だから、明日の朝。またあの無機質なコール音が鳴ったら。

まず、大きく息を吸って、ゆっくり吐いてみてください。それから受話器を取る。

それだけで大丈夫です。たったそれだけのことが、昨日の自分より確実に一歩前に進んでいる証ですから。

大丈夫です。あなたは、ちゃんとやれていますよ。


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