「さっきの3番窓口の患者さん、少し大変だったね」

先輩からそう声をかけられた時。
昔の私は、職場でイヤなことがあっても、決まってこんな風に答えていました。

「はい、お待たせしてしまったので、お怒りでした。でも謝罪して解決したので大丈夫です」

まるで、テレビのニュース番組を読むキャスターのように。
そこに自分の感情は一切乗せず、「こういう事実がありました」と淡々と報告するだけ。

それが、社会人として正しい振る舞いなのだと信じて疑いませんでした。

医療事務のお仕事は、目の前の患者さんに安心してもらうために、自分の感情をグッと堪えて乗り越える場面がたくさんあります。

たとえば、風邪が流行して待合室がぎゅうぎゅうに混雑している日のこと。

「まだ呼ばれないのか!」と、待ち時間の長さから厳しいお叱りを受けることがあります。
心の中では「私も精一杯やっているのに…」と泣きそうになっても、表には絶対に顔を出せません。

「申し訳ございません」と深く頭を下げ、すぐにパソコンに向かって次の計算を始める。

そんな風に、仕事中は感情のスイッチを「オフ」にしないと、心がポキッと折れてしまう瞬間があります。

理不尽な言葉を浴びるたびに、心に分厚い鎧を着込んで、自分の感情を「無」にする。
そうやって、過酷な現場をやり過ごすのが、いつしか私の得意技になっていました。

でも、感情を隠すことに慣れすぎると、ひとつの大きな副作用がやってきます。

自分が本当は何が好きなのか、どうしたいのか、何を悲しいと感じるのか。
自分の心の中が、すっかり分からなくなってしまいました。

その副作用が一番ハッキリと現れたのが、職場の休憩室での「雑談」でした。

お昼休み、同僚たちと机を囲む時間。
みんなが楽しそうにおしゃべりしている中で、私だけがいつも息苦しさを感じていました。

「ここでこの話をしたら、どう思われるかな」
「気の利いたオチがないから、話すのはやめておこう」

常に自分を、上空の「ドローン」から監視しているような感覚です。

全体を俯瞰して、「職場のスタッフとして、どう振る舞うのが正解か」ばかりを探してしまう。

自分の心の中を見る「内視鏡」のカメラを、すっかり失くしてしまっていたんです。

だから、自分の話ができない。
何を話せばいいのか分からない。

自分の感情を、まるで他人事のように遠くから眺めるクセがついていたから、「雑談が死ぬほど苦手」になっていたのでした。

そんな息苦しい毎日が続いていたある日。
休憩室で、いつものように「ニュースキャスター」としてクレームの報告をした私に、先輩がぽつりと言ってくれました。

「状況は分かったよ。でもさ、本当はすごく怖かったんじゃない?」
「上手に話さなくていいから、どう思ったか教えてよ」

その温かい言葉を聞いた瞬間。
ずっと着込んでいた重たい鎧の糸が、ふっと切れたような気がしました。

「……本当は、手が震えるくらい怖かったです」
「私ばっかり怒られて、すごく悔しかった」

ポロリとこぼれた、不器用で、泥臭い本音。

先輩は「そうだよね、怖かったよね。頑張ったね」と、ただただ優しく頷いてくれました。

その時、初めて気がついたんです。
職場の雑談って、面白いエピソードを披露して、場を盛り上げるためのものじゃないんだと。

きれいにまとまったオチなんて、全く必要なかった。

「あんな風に言われて、悲しかったの」
「今日はもう、逃げ出したいくらい疲れちゃった」
「このお菓子、すっごく美味しいね」

ただ自分の内側にある小さな感情を言葉にして、外に出して、一緒に眺めてもらう。

気の利いたアドバイスがなくても、誰かに「そうだね」と受け止めてもらえるだけで。
圧力鍋の蒸気がシューッと抜けるように、ガチガチに凍りついていた心が、じんわりと溶けていくのを感じました。

過酷な現場だからこそ、気を許せる同僚との「雑談」が、最高のリハビリになる。

仕事中は、感情をオフにして全体を見るドローンでいい。
でも裏のドアを開けて休憩室に入ったら、自分の心に内視鏡を向けてあげる。

自分の小さな感情を、テーブルの上にそっと置いてみる。

ポロリとこぼした不器用な本音を、お互いに優しく分け合う時間。

それが、息苦しかった毎日を呼吸のしやすい温かい場所へ変えて、明日も笑顔で働くための、何より大切なエネルギーになってくれる。

今はもう、休憩室の雑談は怖くありません。
自分の気持ちを少しだけ大切にしてあげる、一番優しい時間です。

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